初詣の旅2013(近畿編)二日目

 筆が遅々として進まないため、やむを得ず二日目以降は多少簡素にしました。ご了承ください。



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磐船神社

 さすが大阪、始発が早い。夜の明けぬうちにホテルを発ち、JR片町線の「河内磐船駅」で下車。
 朝日を拝みながら山間の道路を天野川に沿って歩くこと一時間弱、本日最初の目的地の磐船いわふね神社にやっとのことで到着した。近くにバス停はあるものの、大阪側からのバスは平日運行していないので歩いて行くほかなかった(年末年始ダイヤは前日まで)。

 道中、ちょっとした空き地に「磐船神社お旅所」という石碑が立っていた。「お旅所」とは祭礼の時に御輿が一時休憩する場所のこと。そこの案内板によれば、当地交野かたのが原は弥生時代肩野物部氏と呼ばれる氏族が稲作農耕文化を伝え開拓した土地なんだという。


 天野川にまたがるように鎮座する高さ12メートル・長さ12メートルの磐座が御神体。その先端の船先のような形をしているところの真ん前に拝殿が設けられている。


 祭神は物部氏の祖神たる天照国照彦天火明奇玉神饒速日ニギハヤヒ)。境内の由緒によれば、天照大御神の御孫神にあたり、大御神の命令により高天原より天の磐船に乗って河内国河上哮ヶ峯に降臨した。のちに大和国に入り、大和河内地方を開拓したという。
 また、高天原より携えてきた十種瑞神宝とくさのかんだからで鎮魂祭を行い、病に苦しむ人を助け、人をも蘇らせたと伝わる。それゆえ加持祈祷の根源として神道のみならず、修験道密教陰陽道からも崇敬された。

 もとは物部氏の傍系であった肩野物部氏が祭祀を取り仕切っていたようですが、物部氏の衰退後は山岳仏教の影響を強く受け、修験道の一大行場になったそうで、今でも境内には石仏などが数多く残されていたました。



↑可愛い蛇の像


 磐座の岩窟の拝観もできますが、社務所で拝観料を払い、専用の白衣を着用する必要があります。今回は早朝の参詣で、社務所が閉まっていたのでやめときました。




〜〜〜
 帰りは少し歩いて県境を超え、奈良交通バスで近鉄生駒駅まで。ちょうどバスが留まっていたので外で寒い思いをしなくて済みました。均一運賃でもないのに前払いで少々ビックリ。




枚岡神社

 近鉄枚岡駅から東の生駒山に向かって参道が伸びている。ゆるやかな登り坂。拝殿の前にはやや急な石段。


 当社は河内国の一宮であり、「元春日」とも呼ばれ、かつて藤原氏氏神である春日大社奈良市)へ天児屋根大神と比売大神の二柱を勧請したと伝わる。

 元は神津嶽に鎮座していたが、650年(白雉元年)、平岡連らにより山麓の現地へ奉遷されたという。

 祭神ははじめ、中臣氏(藤原氏の源流)の祖神である天児屋根大神と比売大神の二柱であったが、778年(宝亀9年)、春日大社より武甕槌大神と斎主大神の二柱を勧請して、いわゆる「春日四神」となった。後者の二柱は、香取・鹿島の地で神官を勤めていたとされる中臣氏と縁深い神々。


 境内は、ちょうど地元の少年野球チームが参拝に来ていたので賑やかな雰囲気でした。山の方へ伸びる道を行くと、梅林が整備されており、少し開けているので東方面の展望があります。



↑四棟並んだ春日造の本殿



大阪市街地




大鳥大社

 JR阪和線の鳳駅から徒歩数分。正式名称は「大鳥神社」らしいけど、社号標も案内板も大社になっていたので、そうこだわる必要は無さそう。


 祭神の日本武尊やまとたけるのみことが死後に白鳥となり、現在地に降り立ったのが創祀と伝える。同じく式内社の大鳥北浜神社・大鳥美波比神社・大鳥井瀬神社・大鳥羽衣浜神社と併せて「大鳥五社明神」と呼ばれる。

 中世には和泉国の一宮とされたが、中世後期には兵火により一時荒廃し、寛文年間以降に再建された。
 本殿は神社建築史上、大社造に次ぐ古い様式で、「大鳥造」と呼ばれるもの(現在の社殿は明治48年に造営)。


 祭神に関しては、長らく日本武尊とされてきたが、明治期の官社祭神考証で大鳥連祖神おおとりのむらじのおやがみと改められた。その後、日本武尊を加えて二柱となった。


 境内にはところ狭しと屋台が並んでいた。会社ぐるみで初詣に来ている一行もいたので、拝殿の前は大混雑でした。
 参道の途中にヤマトタケル銅像がひっそりと佇んでいた(屋台の後方に隠れていたのでスルーしそうだった)。




 タイムリーなことに、ヤマトタケルをモデルにした

白鳥異伝 上 (徳間文庫)

白鳥異伝 上 (徳間文庫)

白鳥異伝 下 (徳間文庫)

白鳥異伝 下 (徳間文庫)

を読んだばかりで、自分の中でヤマトタケル熱が高まっていました(作中に当社は出てきませんが)。ちなみに、この小説は荻原規子さんの代表作「勾玉三部作」の第二弾にあたります。




住吉大社

 大阪で最も初詣客が多い「すみよっさん」。四天王寺駅から阪堺電気軌道のぎゅうぎゅう詰めの路面電車に乗って到着。


 黄泉国から帰ってきた伊弉諾尊が禊をした時に生まれた住吉三神底筒男命そこつつのおのみこと中筒男なかつつのお命・表筒男うわつつのお命)に加え、第14代仲哀天皇の妃である神功皇后息長足姫おきながたらしひめ命)を併せた四神を祭神とする。
 当社は、住吉三神の神託によって三韓出兵をした神功皇后が、帰途に和御魂を祀ったのを創祀とし、765年(天平神護元年)に社殿が造営されたという。

 古くから海の神・航海の神として信仰されるとともに、畿内の堺として西方からの災いを払う性格も持ちあわせていた。

 「住吉」の名は本来「スミエ(澄み江)」と読まれていたが、平安時代から「スミヨシ」と読まれるようになったという。
 古来より、祭祀は天火明命五世の孫・建筒草命を祖とする津守氏が務めてきた。


 四つの本宮があり、第一本宮に底筒男命、第二本宮に中筒男命、第三本宮に表筒男命、第四本宮に息長足姫命がそれぞれ祀られている。第一本宮から第三本宮までは直列に配置され、第四本宮は第三本宮の横に鎮座している一風変わった形式。


↑第三本宮と第四本宮


 境内は参道から超満員。人に流される形で参拝。ちょうど、第一本宮の前で巫女さんが舞を舞っていた。


 何にしても人だかりがすごすぎて「住吉造」と呼ばれる本殿を堪能する余裕もなく、一度外に出た。

 しばらく摂社末社を見て回ったあとで、もうワンチャン。今度は第一本宮の前で餅投げが催されており、遅れ馳せながら参戦してみた。
 しかし、最後列に近い場所に餅が飛んでくるはずもなく、諦めかけたその時、前方にいた人がパンチングして弾いた餅が運良く飛び込んできて、パシッとキャッチできた。

↑なにも味付けされてないので美味いとは言いがたかった




四天王寺

 日本一の高さを誇る超高層ビルあべのハルカス」の建造が進む四天王寺駅に舞い戻った。少し北へ歩くと地名の元ネタ、和宗総本山四天王寺が鎮座している。


 崇仏派の大臣・蘇我馬子と排仏派の大連・物部守屋が衝突した丁未の乱(587年)に際し、聖徳太子厩戸皇子)が崇仏派の勝利を祈願して四天王を安置したのに始まると伝わる古刹。
 593年に現在の地に移し、敬田院,悲田院,施薬院,療院を置いて、太子の理想である仏教興隆と社会救済事業に努めたという。
 中門・五重塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ伽藍配置は法隆寺式よりも古い形式で「四天王寺」と呼ばれる。
 落雷や兵火で幾度となく伽藍を焼失したが、その都度再建された。現存の中心伽藍は、大阪大空襲での伽藍焼失に伴い、1963年(昭和38年)にRC造で再建されたもの。
 建物は新しいですが、有名な「七星剣」をはじめ、数多くの国宝・重要文化財級の美術工芸品を所有しています(※七星剣は東京国立博物館に寄託)。



↑中門と五重塔


↑太子引導鐘堂


聖霊院太子殿


↑六時礼賛堂


 この旅初のお寺ということで、もう一回おみくじ引いてみたら、またしても「」でした……。今年は間違いなく「吉」です。




生国魂神社

 四天王寺から北北西へ歩いて30分ぐらい。
 社伝によると、神武天皇東征の折、日本列島そのものの神である生島大神足島大神を祀り、国家安泰を祈願したことに始まるという。
 はじめは現在の大阪城附近に鎮座していたが、豊臣秀吉による大阪城築城に際して現在地に遷座した。



↑拝殿




【一言感想】
脚疲れた・・・
このあと更に日本橋・難波を徘徊したので。
摂津、河内、和泉の一宮は巡礼できたのでこの日は上出来。