岡崎サイクリング観光
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岡崎城
岡崎松平家の本拠地。徳川家康の祖父・松平清康の居城として築城された城で、家康出生の地です。家康が今川氏の人質から帰ってきた19歳から遠州浜松城に拠点を移した28歳まで城主を務めていました。
その後、家康の嫡男・信康が城主となりましたが、信康は謀反の疑いで切腹。代わって重臣・石川数正、本多重次が城代を務めました。
家康の関東移封後は豊臣家臣・田中吉政が入り、大規模な城郭整備を行ったとされています。関ヶ原の戦い後、江戸時代になると三河岡崎藩5万石の藩庁となり、家格の高い譜代大名が順々に入りました。しかし、明治維新を迎えると廃城令により取り壊されてしまいました。現在の建物は昭和34年に復元されたものです。
江戸時代は「神君出生の城」として神聖視され、五万石の大名の城にしては規模が大きく、歴代城主は城の維持・管理に手を焼いたそうです。
私がここに来たのは3回目(前回の訪問は中学生の時)ですが、今回が一番しっかり見学できた気がします。天守閣は5階建てで、各階がカテゴリ分けされた展示スペースになっています。また、最上階の展望台からは岡崎市街を一望することもできます。前に来た時は、真冬で風がめちゃくちゃ強くて、風景を楽しんでいる余裕がありませんでしたが、今回はゆったりできました。
二の丸跡は三河武士のやかた家康館という展示施設が建っています。今回の訪問時はちょうど「仏具・武具にみる三河武士の信仰」という特別展示を開催中でした。宮城谷昌光氏の『新三河物語』(上巻だけ)で三河一向一揆のエピソードを読んだばかりの身としては、非常に興味深かったです。
左:家康館 右:大手門(復元)
岡崎天満宮
もとは総持尼寺の鬼門除けとして道臣命を祀ったのが始まり。1690年、岡崎本陣に宿泊していた江戸亀戸天神の別当職・菅原信祐の霊夢によって菅原道真公を合祀し、岡崎天満宮と改称。
道臣命は天忍日命の後裔で、神武天皇の東征の折に先鋒をつとめ、天皇即位の時に宮門の警衛に任じ、その子孫は代々軍事を司ったとされています。古代の豪族・大伴氏の祖。
家康が創建したお寺。松平七代清康(家康の祖父)の妹、久子の墓があります。久子は、家康が生母於大と生別して以来、家康を養育した人です。明治初期に教育機関として使われていた名残りなのか、境内には聖徳太子堂がありました。
伊賀八幡宮
松平氏4代・松平親忠が氏神として伊賀国から八幡神を勧請して創建。家康も出陣の際には必ず戦勝祈願をしたといわれています。江戸時代は将軍家から崇敬されました。本殿、幣殿、拝殿、透塀 、御供所、随神門 、神橋 、鳥居が国指定重要文化財。中でも随神門は煌びやかで立派。門の手前にある蓮池は神仏習合の名残りで、時期的に蓮華はほとんど枯れてしまっていましたが、かろうじて白蓮が一輪だけ咲いていました。
左:蓮池と随神門 右:御供所
徳川家(松平家)の菩提寺。伊賀八幡宮と同じく松平親忠が開基。松平八代の墓、歴代将軍の位牌、家康73歳の時の木像が祭られています。
このお寺には有名なエピソードがあります。桶狭間の戦いに敗れ、失意のうちに敗走してきた家康公(当時19歳)は、当寺院にある先祖の墓前で切腹しようをしました。しかし、13代住職・登誉上人に「厭離穢土 欣求浄土」という言葉で諭されて思いとどまり、大変感銘を受けたこの言葉を自身の座右の銘とし、以後旗印に使用したのでした。
室町時代に建てられた多宝塔が国指定重要文化財。大樹寺と岡崎城を結ぶ約3kmの直線を「ビスタライン」と呼び、高い建造物は建てられないんだそうです。ところで、征夷大将軍のことを「大樹将軍」(後漢・馮異の通名から)ともいいますが、お寺の名前とは偶然の一致なのでしょうか?
左:多宝塔 右:松平八代墓
岡崎きっての古刹。役小角が草創したと伝えられる。南北朝時代建立の本堂と室町時代前期建立の三門は国指定重要文化財。
ここにきて先ほど「三河武士のやかた家康館」のパネル展示の内容が役に立ちました。熱田神宮の大宮司は代々尾張氏が務めていましたが、藤原南家の藤原季範が婿養子になり、以後藤原姓の宮司が続くことに。その藤原氏系熱田大宮司家*1や三河国守護足利家*2とその被官衆といった中央権力と密接する有力な檀家を持つことによって、滝山寺は隆盛を誇ったのです。近世になると江戸幕府の庇護を受け、1645年に3代将軍家光によって東照宮が建立されました。
↑滝山東照宮
東照大権現(徳川家康)を祀る滝山東照宮。なかなか派手派手しい色彩。日光・久能山と並んで日本三東照宮であると案内板には書いてありましたが、仙波東照宮や鳳来山東照宮も三東照宮を称しているので、やや決定打に欠けるところがあります。
実は今回、重要文化財の三門を見忘れてしまいました。というのも、三門は境内より500mほど離れたところにあるらしく、気づかなかったというオチ。それだけ離れたところに三門があるということは、かつてかなりの大寺院だったことがうかがえます。
岡崎市本宿町にあるお寺。本宿の町はこの法蔵寺の門前町として栄えたという。行基によって開創されたといわれ、かつては法相宗出生寺と号していたが、1385年に京都円福寺龍芸教空上人により浄土宗に改められ法蔵寺と改称。松平初代親氏をはじめ、代々松平家の帰依が厚く、諸堂宇を寄進されている。
七代教翁大和尚は松平広忠の兄、家康の伯父で、家康幼少の時この寺において養育され学問手習いを修得したといわれる。境内には弘法大師建立と伝わる六角堂や、家康の父・松平広忠の墓、江戸時代前期に創建された東照宮もあります。
また、意外や意外、「新選組隊長・近藤勇首塚」が当寺にはありました。伝承によると、京都・三条大橋に晒されていた近藤の首級を斉藤一が奪取し、三条大橋そばの誓願寺にいた孫空義天に供養を依頼し、義天の異動に伴って当寺に埋葬されたとされています。まあ真偽の程は定かではありませんが。
左:本堂 右:近藤勇首塚
【感想】
野を越え山越え岡崎まで自転車で回ったわけですが、当日は風も弱く、薄曇りだったのでまあまあ快適でした。行きは岡崎のすぐ東にある藤川宿を突っ切りました。これで何気に愛知県内にある旧東海道の宿場町9ヶ所すべてを制覇したことになったり。
体力に余裕があったら帰りに一畑山薬師寺に寄ろうかとも考えていましたが、疲れた足で山の上まで行く気力が湧かなかったのでやめました。
新三河物語上巻を読んだばかりだったので、三河一向一揆の拠点となった三河三ヶ寺に行きたい気持ちもありましたが、ルート的に厳しいので諦めました。