京都旅行 〜2日目〜

年明け何かと忙しくてこんなに遅くなってしもた。記憶も薄れかけ。てへぺろ(・ω<)


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 疲れていただけあって寝付きはよかったが、目の前で子供がエレベーターの隙間に挟まれるという悪夢にうなされて起床。これがかの“平安京の悪夢”なのかなどと考えならが身支度した。
 手持ちのカメラは周囲が薄暗いとノイズがのってしまう仕様なので、日が昇るのを待ってる間に朝ご飯を軽くとった。
 河原町から東へ歩き、四条大橋を渡り、突き当りに鎮座する八坂やさか神社へ。楼門前のローソンの色が京都仕様だった。


◇八坂神社

 言わずと知れた祇園祭で有名な神社。もとは東山の麓にある八坂郷の鎮守神で、高句麗帰化氏族・八坂氏氏神であったと考えられているが、社伝によれば斎明天皇のとき紀百継きのももつぐがこの地に祭祀を始めたという。
 創祀については他にも諸説ある。いずれにせよ初期の頃から仏教色が強く、大社にもかかわらず式外社となっているのは、神社ではなく仏寺と見做されていた可能性が高いからであるという。
 現在の祭神はスサノオを中心にして、相殿に妃神・櫛名田姫および子神五男三女八柱としている。明治の神仏分離令以前までは祇園精舎の守護神とされる牛頭天王ごずてんのうを中心に据えており、「牛頭天王社」「祇園天神」「武塔天神」などと称した。牛頭天王は起源を含めて謎の多い神であるが、その荒々しい性格からスサノオの本地とされ、除疫神として信仰を集めた。なお、方位神の大将軍は牛頭天王の息子であるという。
 当地、祇園の元ネタである「祇園精舎」は、釈尊の生前に建てられた五大精舎の一つ。正式名称は「祇樹給孤独園精舎」とやや長い。給孤独長者と呼ばれた慈悲深いスダッタという富豪が、ジェーダ太子(祇陀太子)の所有林を譲り受けて建てた精舎(寺院)といった意味だそうだ。平家物語の冒頭で「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と出てくることで有名。ちなみに現在は遺跡が残るのみとなっている。

 私の参拝時はまだ朝の掃除の時間で参拝客はほぼ皆無。境内は静まりかえっていた。しかし、拝殿の前の大きな賽銭箱を見るに普段の参詣人の多さを推し量ることはできた。また、幸運にもまだ拝殿前の舞殿(?)の提灯が消灯されていなかったので写真に収めることができた。

 個人的なことですが、今住んでいる土地にはやたらと祇園系列の神社が多いもので、この八坂神社には不思議は縁を感じました。愛知に祇園社が多いのは、津島神社という牛頭天王を祀っていた神社があるので、そちらの影響かもしれない。



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 八坂神社の境内をぐるりとひと通り見て回り、枝垂れ桜で有名だという隣接の円山公園の中を突っ切って車道に出た。すると巨大な建物が眼前に出現。


知恩院三門

 浄土宗総本山の知恩院の三門で国宝に指定されている。1621年(元和7年)建立。知恩院といえば中学の教科書でも名前が出てくるほどの大寺院。浄土宗の祖・法然が創建した。特に江戸時代には徳川将軍家の保護を受け、大規模造営されたという。
 そういえば、徳川家康は熱心な浄土宗徒で、畿内観光中に本能寺の変で信長の訃報を知るやいなや、気が動転して知恩院で殉死すると言い出し、家臣たちを困らせたというエピソードが『覇王の家』に出てきたのを思い出した。


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 その後、奇しくもそれに関連して知恩院から少し歩いたところにある明智光秀の塚に寄った。


明智光秀の塚

 山崎の戦いで敗れた光秀は、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われ自刃したという。光秀の家来が首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられる。
 住宅街のせまーい道路の角にひっそりと建てられていた。ホントにひっそりと。


賀茂御祖神社下鴨神社

 もう一方の賀茂神社。来歴及び祭神については一日目の記事を参照のこと。
 こちらでは上下社共通の例大祭である「賀茂祭」について少々。賀茂祭は4月中酉日に執り行われる山城国の国祭で、806年(大同元年)に勅祭とされて以降、勅使が参向して盛大に執り行われた。応仁の乱で一時中絶したが、1694年(元禄7年)に再興され、明治17年より新暦の5月15日に改まった。
 当日祭礼の行列が下社から上社へと進み、勅使の祭文奏上、神前での御馬牽廻し、東遊の奉納などがあり、新緑の京都に一大絵巻が繰り広げられる。この祭には参加者や祭具などに葵楓の蔓をかけるならわしで、このために一般的には葵祭と呼ばれている。

 当社は糺の森という広い社叢を有しているため、京阪出町柳駅からだと少し歩くことになる。終わりかけの紅葉が美しい参道を歩いて行くと、糺の森祭祀遺構という古代の祭壇などの遺跡があった。

参道と祭祀遺構

 その先の赤鳥居をくぐった先には、上賀茂神社に似た丹塗りの楼門(重文)が建っていた。楼門から回廊の中に入ると、同年(1628年)に建てられた舞殿(重文)が中央あり、来年(当時)の干支である龍の巨大絵馬が飾ってあった。

楼門と舞殿・橋殿

 本殿については、幣殿の前には蕃塀が建てられているので、中門の前からでは中の様子が見えないようになっている。
 ついでに、本殿の斜め手前にある橋殿(重文)が絶賛修繕工事中だった。この建物は天皇行幸の際の公卿控え室だという。(また工事か・・・)
 また、楼門の前には連理の賢木という縁結びの御神木があった。二本の枝がくっついて一本になっているという「京の七不思議」の一つだという。比翼連理の連理の方。


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 お土産を物色してから次の目的地へバスで。
 降車する時に小銭の両替をわちゃわちゃやっていたからか、一緒に降りた地元住民らしきオッチャンに観光するから一日フリーパスを買った方が便利だよと教わった。正直、フリーパスの存在は知っていた(当日バスに乗る回数は多くて2回の予定だったため買わなかった)が、親切に教えてくれたのにウダウダ説明するのもアレなので、お礼を言ってその場を修めた。


北野天満宮

 菅原道真(845-903年)を祀った学問守護の神社。学者の出ながら従二位右大臣まで上り詰めた人物。左大臣藤原時平の讒言により大宰権帥大宰府副司令官)に左遷されたことは有名。
 その後、無実の罪で憂死した道真への同情が高まりつつあった折柄、平安京においてしばしば落雷等の異変が相次ぎ、朝廷はこれらを道真の祟りによるものとして慴れ、薨後20年、道真の本官を復して正二位を贈位し、火雷天神の号を賜ったという。
 942年(天慶5年)、右京七条に住む多治比文子たじひのあやこという少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて947年(天慶10年)、現在地に朝廷によって社殿が造営されたのが当宮の起源。
 いわゆる天神信仰の神社であるが、もとは雷神信仰であった。道真の怨霊がしばしば雷火の厄となったため、両者が結び付いて、天神といえば道真をさすようになり、その遺徳を偲ぶとともに、特に文学に親しんだ神として崇敬が加えられるに至った。

 現在の社殿は1607年(慶長12年)、豊臣秀頼片桐且元を普請奉行として造営したもので、本殿は楽の間・石の間を挟んで拝殿と連接した権現造の典型され、中門の冠木に見る唐獅子の蟇股や八棟造と呼ぶ屋根の形態など、のちにその形式が東照宮に受け継がれた。本殿・石の間・拝殿・楽の間は国宝に指定されている。

 国宝の社殿をじっくり眺めながら写真を撮っていたら、装飾の鳥の首が折れていることに気づいた↓


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 お次は天満宮から徒歩数分の場所にある平野神社へ。またしても桜の名所らしい。


平野神社

 百済の神を祀った珍しい大社。もとは今木神いまきのかみとして奈良の田村で祀られていた。ところが、和史氏百済武寧王の後裔〕の高野新笠を生母とする桓武天皇が、平安京遷都を行ったため現在地へ遷祀した。
 「今木」とは「今来(新来)」で、外国から渡来してきた神の意であり、ここでは百済聖明王をさす。他の祭神についても、久度神くどのかみはかまどの神で、聖明王の先祖・仇首王。古開神ふるあきのかみは古関のことで、古は枕流王、関は肖古王である。比売神に関しては外祖母・大枝真妹の祖神であるとされるので、この神だけは日本の神ということになる。
 なお、桓武天皇は身分の低い生母から生まれた天皇であったため、皇位継承の正統性を強化すべく帰化系豪族の地位向上に努めたとされる。
 近隣の天満宮と比べるとややこじんまりした感じの神社だが、現在の社殿は一間社春日造の社殿を4つ並べ、2殿ずつを合いの間で連結するという独特の様式で「比翼春日造」や「平野造」と呼ばれるもの。
 また、境内にはすえひろがねという磁石のくっつく岩があり、現在確認されている日本最大の餅鉄だという。


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 平野神社を出てから西大路通を20分ほど歩いて南下しJR円町駅に。駅の前で売っていた京都コロッケで小腹を満たしつつ電車を待った。嵯峨野線京都市を脱出して丹波一宮のある亀岡市へ。
 JR亀岡駅に着くとまず神社までのバスの時刻を確認した。そうしたら一時間以上空きがあったので、駅前を散策しに出掛けた(駅構内は吹き抜けで寒かった)。ところが、連日のバタバタで結構足にキテいたので無理はせずに近くのイオンで休憩していた。
 そののち、待ちに待ったバスに乗ってのどかな田園風景を走って出雲大神宮にまかりこした。


出雲大神宮

 御蔭山の麓、山と池に挟まれる形で鎮座している丹波国一宮。「出雲」を冠する神社というと、島根県出雲大社を思い浮かべる人が多いだろうが、あっちは近世以前まで「杵築大社」と称していたので、伝統的にはこっちの方が出雲のヤシロ。
 創建に関してはよくわかっていないが、社伝によれば709年(和銅2年)元明天皇の治世に初めて社殿を造営したという。祭神は大国主とその妃神・三穂津姫。妻が山ほどいることで知られる大国主だが、この三穂津姫は国譲り後の隠居時に娶ったタカミムスビの娘。
 現在の本殿は三間社流造で、1345年に足利尊氏により建立されたものとされ、重要文化財に指定されている。
 また、吉田兼好の随筆『徒然草』に当社のエピソードがおさめられている。詳しくは公式HPで。
 境内には真名井の神水という湧水があり、こちらもまたポリタンクでお持ち帰りしている人がいた。看板にはお一人様10リットルまでと注意書きがしてあった。また、山の方へ延びる参道を進んでいくと、上の社御蔭の滝磐座などがあり、なかなかバラエティーに富んでいた。


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 帰りのバスまで結構空きあったので隅々まで見物したが、さすがに山には登らなかった。満を持して帰りのバスに乗り、JR千代川駅から再び京都市へ。嵯峨嵐山駅で下車して、そこからちょっと歩いたところにある車折くるまざき神社に。


車折神社

 平安後期の儒学者で、明経道家の中興の祖・清原頼業きよはらのよりなり(1122-1189年)を祀る神社。
 頼業が薨じた1189年に清原家の領地であった現在地に廟が建てられた。その後は、頼業の法名・宝寿院にちなみ、宝寿院という寺を営んで菩提を弔うことになったという。現在の社殿は宝暦年間(1751〜1763年)に造営されたものといわれている。
 頼業は生前、桜を愛でていたことから境内にはたくさんの桜が植えられ、「桜の宮」とも称される。特に早咲きの「河津桜」が有名。
 「車折」という社号は、後嵯峨天皇行幸の折、この神社の前で御召車の轅が折れた。このことを神罰と考えた御門は、「車折大明神」という御神号と正一位を贈られて以降、「車折神社」と称されるようになったという。
 この神社には「祈念神石」と呼ばれる石の入ったお守りがあり、願いが叶ったらお礼として石を奉納するという。

 この神社を語るうえで忘れちゃいけないのが境内社芸能神社。表参道の途中にある神社で、記紀神話の岩戸隠れの段で舞を踊った天宇受売命を祀っている。天宇受売命は芸能の神としても信仰されていて、この神社にも多くの芸能人は参拝しに来るという。その証拠に、名だたる芸能人の名前が入った玉垣(神社の垣根)がズラッと建てられていた。(下記の写真)
 また、社殿には芸能人の写真が所狭しと貼り付けられていて、ある意味異様だった。


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 嵐電嵐山本線のワンマン電車に乗り込み次の目的地へ。数駅のところにある蚕ノ社駅で下車。ワンマン電車は思いのほかぎゅうぎゅう詰めで、あわや降り遅れそうになってヒヤッとした。蚕ノ社駅から少し北へ歩くと、駅名の元である「蚕の社」として知られる木嶋坐天照御魂このしまにますあまてるみたま神社が鎮座している。


木嶋坐天照御魂神社

 やたらと長い社号なので通称は「木嶋神社」。本殿の東側に織物の始祖を祀る蚕養神社があることから「蚕の社」とも呼ばれる。
 現在の祭神は天御中主命ら四柱、または瓊瓊杵命も入れて五柱。社号に「天照」と入っていても天照大神を祀っているわけではない。
 当社のある嵯峨野一帯は、古墳時代朝鮮半島から渡来し、製陶・養蚕・ 機織などにすぐれた技術をもっていた秦氏の勢力範囲であった。その秦氏が水の神・結びの神を祀ったのが当社の由来といわれる。
 本殿西側にある「元糺の森」の池には、珍しい「三柱鳥居」が立っている。現在の三柱鳥居には、1831年天保2年)に再興されたとの刻銘がある。それ以前からあったようだが、誰が何のため建てたのかもわかってはいない。

 秦氏の祀った当社に「元糺の森」があり、賀茂氏が祀った下鴨神社に「現・糺の森」があることも古代豪族の関係性を匂わせるところだなぁと思った。さほど大きい神社ではないが、なにかと話題に事欠かない神社であった。


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 帰りは蚕の矢駅前のバス停まで戻り、ちょうどやって来たバスに乗り込んだ。乗ってから気づいたが、そのバスは市バスではなく京都バスであった。仕様の違いに戸惑いつつもゆらりと京都駅まで戻ってきた。まだ夕暮れ時で晩ご飯にしても早過ぎるので、ガイドブックの地図を眺めていたら、三十三間堂の近くに豊国神社があることに気づいて徒歩で向かうことにした。


◇豊国神社

 あえて説明するまでもないが、尾張中村出身の百姓から天下人へと大出世を遂げた豊臣秀吉(1537-1598年)を祀る神社。隣りには秀吉が創建した方広寺がある。
 秀吉の死後、後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神の神号が贈られた。現在地への遷座1880年明治13年)で、同時に別格官幣社に列せられた。
 伏見城の遺構といわれる唐門は国宝に指定されており、二条城から南禅寺金地院を経て、移築されたもの。また、唐門両脇の石灯篭は、豊臣秀吉恩顧の大名が寄進したものという。
 ノロノロ歩いていたせいか、豊国神社に着いた頃にはだいぶ日が傾いていて、唐門は閉ざされていた。よって拝殿や本殿を見ることはできなかった。でもまあ、薄暗い中でも唐門の煌びやかさは十分感じ取れたのでまあいいやといったところ。


方広寺鐘楼

 豊国神社のすぐお隣りにある方広寺の鐘楼。創建当時からのものはこれだけという。この梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が家康に難癖付けられ、大坂の役の大義名分となったことは知る人も多かろう。さすがに暗かったのでカメラのズームを使っても、その文字列は探し出せそうになかった。


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 さすがに疲れたので重い足取りでなんとか駅前まで帰還し、飯屋を探して徘徊した。気がつくと、夏の虫のごとくまばゆい灯に惹かれてヨドバシカメラに入店していた。名駅ビッグカメラみたいだなーと感心しながら各フロアをふらついて暫しウィンドウショッピング。
 ところが結局なにも買わず食べず鳴かず飛ばずで、駅ビルへ向かった。お食事処をぷらぷらしていたら、昨夜の晩に老舗の蕎麦屋で親子丼にしようか鴨南蛮(冬季限定)にしようか迷いに迷ったことを思い出して、鴨南蛮を取り扱っていた麺屋に入った。
 つるりと平らげて店を後にして、構内のおみやげコーナーで八ツ橋を買い、新幹線で帰路についた。行きと違ってあっという間だった。


感想など

 ひと通り目標は達成できたので有意義至極な旅になったと思う。一宮も三国制覇できたし。まあ、レトロスペクティブな京都はやっぱいいなぁと思ったのが素直な感想。かつての政治・経済・文化の中心地なんだと思うだけで染み入るものがあった。
 今回は神社に的を絞って回ったので、次回はまた別のコンセプトで訪ねてみたい。ちょうど嵯峨嵐山駅で下車した時に高校時代、友達とともに日帰り京都旅行をしたときのことを想起した。あの時は全ルート友達任せだったので、どこを回ったのか細かく覚えていないが、確か天龍寺あたりに行った記憶がある。淡い青春の一ページに想いを馳せるとともに、あの頃に比べると年取ったなぁ……と気落ちした。
 後日談となるが、今回の旅で巡回した神社のことを調べているといくつかの豪族の名前が出てきた。記事の中だけでも建部君、賀茂氏物部氏、八坂氏、和史氏、秦氏など。奇しくも行きの鈍行電車の中で読んでいた本は↓だったので、今回の旅にはホットな内容だった。
 古代史には跋扈する数多の豪族も、その後は政治の中心から姿を消す。ところが消えてしまった豪族の中には、案外氏神の神社の神官として脈々と続いている場合もある。そういったところがおもしろいなぁと思う。